桶狭間後の今川義元 その30
武田信玄の死によって当主となった勝頼は、信玄の遺言通り領国経営に専念して国を富ませることに重きを置いていました。しかし家臣団には勝頼に対する不信感が燻っていました。特に信玄股肱の旧臣たちには山県昌景を死に追いやった浅慮さが我慢ならなかったのです。
家康尾張へ出陣
大和で小早川隆景が一敗地にまみれたものの、この方面には自らが備えることで十分と考えた将軍足利義輝は、徳川家康に尾張への出陣を命じます。その軍勢1万5千。彼らは尾張を奪還した後は故地三河だと意気軒昂たるものがありました。すでに信玄死去の噂は事実と受け止められており、勝頼何するものぞという精神的優位にあったのです。
小牧の戦い
関ケ原での敗戦以来幕府軍の侵攻を予期していた勝頼は、小牧山に目をつけ強固な砦を築いていました。濃尾平野を一望できるこの山は、清州を目指す幕府軍と連携するであろう犬山城の織田信清の動きをも封じる場所に位置し戦略上きわめて重要と判断したのです。家康の出陣を知った勝頼は清洲城を叔父信廉に託して小牧山に入ります。これを知った家康は信清に出陣を要請、木曾川を渡って黒田城に入ります。家康はまっすぐ清洲城を目指す体で勝頼を要害である小牧山から引きずり出し、信清とで挟撃する作戦でした。ところが勝頼は信清勢の接近を知ると家康には向かわず一気にこれを撃破してしまいます。家康が背後を襲おうと小牧山に接近した時にはすでに勝頼は陣を整えて待ち構えていたのです。数に勝る幕府軍に対して勝頼は自ら陣頭に立って奮戦、小牧山を守っていた小原継忠がここぞとばかりに山を下ると形勢は逆転、家康は黒田城に撤退を余儀なくされます。幕府方では黒田城主和田定利が討死、勝頼は父信玄譲りの疾風の如き用兵で関ケ原で地に堕ちた武名を回復することになります。また、ともに初陣であった家康嫡男信康と信玄五男仁科盛信が乱戦の中遭遇、一騎打ちを演じるという一幕もありました。
武田家中への調略
この敗戦で勝頼侮れずと実感した家康は方針を転換、故地回復を急がず武田家中の切り崩しに出ます。標的は信玄の弟典厩信繫の後継者信豊でした。信豊自身は勝頼との関係は良好で取って代わる意思など毛頭なかったのですが、信玄の右腕として武田の屋台骨を支え、川中島で信玄の身代わりとなって討死した信繫は武田家中、特に旧臣たちにとっては未だ憧憬の対象であり、信繫さえ存命ならば義信の廃嫡はなかったと考えるものも少なくなかったが故に信豊こそ武田宗家を継ぐに相応しいという声も多く、それは関ケ原での大敗によって無視できないものになっていたのです。小牧で汚名挽回したとはいえ、旧臣たちにとっては不安を完全に払拭できるものではなく、彼らの期待が信豊に集まるのを防ぐ手立てはなかったのです。しかし信豊は父信繫と同じく飽くまでナンバーツーとして勝頼を支えることに徹する決意を固めていましたが、次第に周辺を取り巻く環境は予断を許さぬものになっていきます。
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