桶狭間後の今川義元 その35
次第に厳しい状況に置かれる武田勝頼の苦闘をよそに、同盟者北条氏政は関東での版図を着実に広げて残すは常陸の佐竹義重のみとなっていました。関東制覇後には武田領国に食指を伸ばそうと考えていた氏政には、勝頼を積極的に援助する考えなどなかったのです。
佐竹、蘆名に接近
奥羽では郡単位の国衆が乱立して離合集散を永らく繰り返してきましたが、この頃になると南奥では伊達と蘆名の二大勢力に収斂されようとしていました。迫る北条との決戦には佐竹の総力を挙げねばならないと考えた義重は、背後の安全を確保することが必須と判断します。そこで選んだのが蘆名盛氏との連携でした。蘆名は北条・伊達と同盟関係にありましたが、そこに楔を打ち込むことは可能と義重は考えます。というのは伊達輝宗の妹を正室とする盛氏の後継者盛興が世継ぎを残さず病死した後、盛氏は二階堂氏からの人質として手元に置いていた盛隆を養子にして家督を継がせていたのです。これには反発する重臣も多く、家中の不協和音が盛氏を悩ませていました。同盟しているとはいえ奥州統一への意欲を隠そうとせず勢力拡大を続ける伊達とはいずれ対決せざるを得ないかもしれず、腹背に強敵を抱えることは避けたいはずと義重は考えたのです。この思惑は盛氏と一致し、義重は嫡男徳寿丸を人質に出してまで同盟成立にこぎつけることになります。
宇都宮、北条から離反
さらに義重は、上杉謙信が関東から手を引いたことで北条に従属せざるを得なくなっていた下野国衆の調略に乗り出します。真っ先に反応したのがかつて下野で最大勢力を誇っていた宇都宮氏でした。この頃当主宇都宮広綱は病弱だったこともあって実権を親北条の重臣皆川俊宗に握られていましたが、復権を果たす絶好機と捉えたのです。そこで広綱は芳賀高定に命じて俊宗を討たせて反北条の旗幟を鮮明にすることになります。佐竹という後ろ盾を得た広綱は、まずはかつて下野守護職を争った積年のライバルと言える小山氏打倒に動き始めるのです。
小山城の戦い
宇都宮勢の南下を知った小山秀綱は実弟結城晴朝に援軍を要請して野戦で迎え撃つ腹でしたが、佐竹勢が呼応して接近しているとの報を受けて小山城に退き、北条氏政に援軍を要請します。これを受けた氏政は自らの出陣を下知するとともに、栗橋城の弟氏照に小田氏治を伴って直ちに小山城を救援するよう命じます。氏照は氏治に佐竹勢の横腹を突かせるべく下妻に向かわせるいっぽう、自身は小山に急行しますが城はすでに包囲されていました。さらには氏治が佐竹勢に撃破されたとの報が入るとともに、義重自身の出馬が確認されて厳しい局面を迎えますが、氏照はこれを果敢に迎撃して食い止めます。武勇卓絶した義重率いる精強な佐竹勢の猛攻を凌いで崩れませんでした。速戦即決を図った義重の思惑通りにはいかず、やがて氏政の本軍3万が武蔵に入ったと知るに及んで形勢不利と判断、常陸へ撤退することになります。
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