桶狭間後の今川義元 その5
武田信玄の胸中は南北どちらを目指すかで揺れていましたが、次第に南進に傾いていきます。これは源頼朝によって鎌倉幕府の中枢から外されて一守護大名に甘んじざるをえなかった甲斐源氏の棟梁という自負が、足利将軍家や今川の風下に立つことを良しとしなかったということでしょう。時節到来まで、その準備に余念がなかったのです。
信玄、義景に呼応
堅田で敗れた朝倉義景は西美濃三人衆に幕府軍に対して横槍を入れるよう要請しますが、彼らは東濃の実効支配化に注力しており応じる気配がありません。そこで目をつけたのが信玄です。自分が挙兵したのは将軍家をないがしろにして簒奪をたくらむ今川義元を除くためであるとして同盟を申し入れます。信玄はこれを好機と捉えました。かねてから南進策に強硬に反対してきた嫡男義信の廃嫡を決断するとともに、北条氏康に合力を求めます。駿河を制した暁には駿東を北条に割譲する代わりに、上杉輝虎の信濃侵攻に際しては協力してこれに当たるという条件です。義元に不信感を募らせていた氏康はすでに氏政に家督を譲っていましたが、信玄の娘が正室である氏政も同意します。国府台で里見を撃破して安房に押し込めるとともに、輝虎の影響力を著しく削いだ今こそ関東完全制覇の絶好機と見たのです。家督を譲ったとはいえ氏康がいるといないとでは諸国の評価は大きく違います。氏康としては自分の目の黒いうちに何とか目途をつけたかったのです。
甲相駿三国同盟の崩壊
阿波に逃れた三好では義興が病死、後継者に先立たれた父長慶は落胆のあまり心身がさらに衰弱してしまいます。このため義元は三好に反攻の力なしと判断、畿内にさらなる動員をかけて浅井討伐に本腰を入れます。小谷城の支城を順次落としていくものの損害も少なくはなく、半年を経過しても小谷城に落ちる気配はありません。そんな中入ってきた知らせに義元は耳を疑いました。武田義信が廃嫡されて正室であるわが娘が駿府に送り返されてきたというのです。これが直ちに信玄の背信を意味するとは思えませんが、武田との同盟を堅持するための外交を最優先することと、万が一信玄が不穏な動きを見せた場合には北条氏康と諮っての対処に怠りないよう駿府の氏真に申し付けます。将軍義輝とともにに天下静謐に向けての戦いを進める自分に対して彼らが公然と立ち向かってくるとは信じられなかったのです。しかし次に入ってきた知らせは彼の希望的観測を打ちのめすものでした。武田軍1万が甲駿国境に殺到しているというのです。三国同盟の崩壊はこれで決定的です。おそらく氏真は防戦の準備が万端ではなかったはずですから、ここは氏康の助力に頼るほかありません。小田原に急使を発して駿府の防衛を乞うのですが、その心中には一抹の不安を拭い去れませんでした。それは信玄と氏康がすでに結託している可能性です。もしそれが現実のものとなった場合どうするか? たとえ上杉や里見・佐竹を動かしても、それは地理的に言って背後を牽制するにとどまって駿河の戦況を直接左右するものではありません。あくまで京に残って義輝を支えるのか、即刻駿府の救援に向かうかの選択を迫られることになります。
義元迎撃を決断
それでも打つべき手は打っておかねばなりません。まず朝倉義景の再南下に備えて上杉輝虎に越前への侵攻を命じます。氏康が同盟を堅持するつもりならばこれで十分でしたが、事態は義元が危惧する方向へ進んでいたのです。義元の駿府救援依頼に対して氏康は快諾していました。しかし、その内容は「氏真の正室早川殿の安全に最大限尽力する」というものだったのです。さすがに外交上手な氏康です。義を重んじる体をして氏真や駿府には全く触れていません。これには早川殿の安全は武田が保証するという約束が氏康と信玄の間で交わされていたという裏があり、結果的に氏真や駿府がどうなろうと早川殿さえ無事ならば約を違えたことにはならないということです。氏康としては駿河国境に軍勢を配置し、戦況次第では自ら駿府に進もうとさえ考えていたのです。
氏真は大宮城と蒲原城を防衛ラインとして庵原忠胤を派遣する一方、氏康に救援を要請します。そこで信玄を足止めできれば挟撃できると踏んだのです。ところが氏康の命を受けた氏政は1万5千を率いて駿河に侵入し長久保城、興国寺城を接収すると北上せずに富士川を越えたのです。朝比奈信置は危惧を抱いて氏真に駿府の放棄を進言します。大宮城の救援を命じた御厨の葛山氏元は全く動かず、このまま西進した氏政が敵対したならば今川軍は腹背に敵を抱えることになります。駿府が防御に不向きなことは先刻承知の氏真は、掛川への撤退を決断するのです。
この情勢を受けて義元は小谷城への対処を松永久秀に託して観音寺城に撤退、松平元康に京と義輝の守護を命じた後清洲城に帰って兵力を結集し駿府防衛に向かうのです。
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