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桶狭間後の今川義元 その13

高天神城の攻囲に加わった北条軍が僅かにすぎないことを知った武田信玄は決断を迫られます。諏訪勝頼の本城高遠を落とした上杉輝虎が将軍足利義輝と合力すると二俣城は風前の灯火となります。信玄の下した決断は、二俣城救援よりも高天神城に籠る今川義元の息の根を止めることでした。

高天神開城
1年以上に及ぶ籠城戦を強いられていた高天神城の糧食は尽き果て、一縷の望みを託した幕府軍の反攻も失敗した義元はすでに絶体絶命の危機にありました。信玄自らの来攻を知った義元は、これ以上の抵抗は無駄と判断して城兵の助命を条件とした開城を申し出ます。これを受け入れた信玄は、義元を室町幕府副将軍として丁重に扱って命を奪うことはありませんでした。しかし義元を自らの領国に留め置くことは後々の火種になると判断、同盟者北条氏康に委ねることにします。高天神落城を知った幕府軍は士気を阻喪、義輝・輝虎とも撤退を開始します。嫡男氏真正室早川殿の実家、つまり義兄弟でもある氏康に引き渡された義元は、その後10余年を伊豆修善寺で過ごすことになって二度と歴史の表舞台に登場することはなかったのですが、その後天下の帰趨はどうなったのでしょう。

輝虎の関東出兵
輝虎封じ込めに失敗して信濃を蹂躙された信玄は、その脅威を痛感しますが西上を断念する気はありません。輝虎への対応は甲府の信廉に委ねるしかないですが、信廉だけでは輝虎には抗しえないと危惧し真田幸隆らの信濃先方衆を帰国させます。遠征軍の兵力減少は痛いですが止むを得ません。返す返すも長弟信繫を川中島で失ったことが悔やまれます。信繫ならば輝虎にも臆せず伍し得たはずです。まずは遠江を完全に領国化しての兵力拡充を図ります。
永禄10年(1567年)春、輝虎はまたしても動員をかけます。底がないかのように精力的な輝虎の目標は、今度は信濃ではなく関東でした。将軍から与えられた関東管領職を名ばかりのもののままにするのを良しとせず、氏康に奪われた失地の回復を諦めてはいなかったのです。

三船山の戦い
古河公方を庇護下に置いて輝虎の影響力を排除し関東経略を着々と進めてきた氏康にとって、残るは常陸と安房のみでした。まずは長年てこずらされた里見義弘に引導を渡すべく当主である氏政に出陣の準備をさせていた時、輝虎が三国峠を越えたとの報が入ります。氏康は輝虎を上野に拘束している間に里見との決着をつけようと氏政の出陣を急がせる一方、若神子の綱成を厩橋城に戻して輝虎の進出に備えます。かつて小田原攻めの際に続出した国衆の離反も今回は見られず数的優位を確信した氏康は遂に自らの出陣を決断、輝虎と雌雄を決すべく河越城へ向かうのです。しかし河越城に入った氏康を待っていたのは驚くべき報告でした。渡海して義弘の本拠佐貫城を目指していた氏政が、三船山で大敗したのです。これを受けて氏康は野戦に打って出るリスクを回避、綱成にも防戦に徹するよう命じて小田原に撤退します。輝虎もなんとか沼田城を落としたものの、関東諸将が全く誼を通じてこない状況に小田原への進軍は不可能と判断、厩橋城を目前にしながら下野に転進して足利城を落としたものの唐沢山城は落とせず越後に帰国します。
氏政の三船山での敗戦は、氏康にとって痛恨事でした。長い時間を費やした房総経略が水泡に帰し、滅亡寸前まで追い詰めた里見が息を吹き返す結果となりました。当主自らが出陣しての惨敗は房総の諸勢力にも大きな影響を及ぼし、里見や常陸の佐竹に接近しようとする動きも出始めます。自分の目の黒いうちに関東制覇をという氏康の野望は頓挫し、これに気落ちしたかのように健康も優れなくなっていくのです。

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戦国時代

Posted by hiro