桶狭間後の今川義元 その14
掛川城が落ちて今川義元が伊豆に追放された事実は幕府方を動揺させますが、稲葉山城に入った将軍足利義輝はまだまだ意気軒昂であり、来るべき武田信玄の西進に備えて京を預かる松永久秀に戦力の増強を命じていました。
小谷落城
朝倉義景を滅ぼした松平元康は浅井長政の籠る小谷城を囲みましたが、戦国屈指の山城を落とすのは難題でした。そこで浅井家中の離間を図って調略に出ます。朝倉滅亡の影響は大きく徹底抗戦を叫ぶ当主長政に対する反感が強まっていたのです。結果的に浅井井規・阿閑貞征らが内応したことで長政は追い詰められ自刃して果てます。北からの圧力がなくなったことで戦局は幕府にとって著しく好転したのです。
信玄征西を再開
稲葉山城を安藤守就に託して帰京した義輝は将軍直轄軍の増強に着手、この時かつての美濃守護土岐氏の一族明智光秀や桶狭間以降浪人していた前田利家が加わります。また諸国に御内書を発して協力を呼びかけるものの副将軍義元敗北の影響は大きく、旗幟を鮮明にするものは僅かでした。その中で尼子氏を滅亡させて中国地方の大半を勢力下に収めた毛利元就は、中央進出の足掛かりとするべく積極的に反応して三男小早川隆景を海路上洛させます。これに同道した家臣の中に木下秀吉がいたのです。
幕府軍を挟撃するという目論見が外れた信玄は、単独で幕府軍を打ち破るには輝虎封じ込めが必須と判断、越中の椎名康胤に調略をかけます。上杉方として奔走してきた康胤は、長年対立してきた神保氏の本領を安堵するという輝虎の決定に不満を持っていたのです。また会津の蘆名盛氏に再び越後侵攻を持ち掛けて背後を脅かし、輝虎の南下を牽制しつつ三河へと進発したのです。
岡崎城包囲
信玄が動き出したことを知った義輝は三河・尾張の各城に籠城戦を指示、自らも稲葉山城に入ります。信玄は後背地に幕府方の拠点を残して進軍した結果反撃を招いた教訓から、今回は西進を急がず確実に幕府方の城を落として漸進することにします。しかし岡崎城をはじめ各城はこれに備えて防備の拡充、兵糧の備蓄に怠りなく万全を期していました。岡崎城の本多重次は信玄の挑発に乗らず城を固く閉ざします。全く落ちる気配のないことに業を煮やした信玄は遂に力攻めを決断、激しい攻防が繰り広げられます。これは義輝の思惑通りでした。各城を捨て石にしてでも武田軍の兵力を擦り減らさせ、損耗を強いてからの決戦を策していたのです。
蘆名盛氏の越後侵攻
このころ米沢の伊達家では当主輝宗と隠居でありながら実権を手放そうとしない父晴宗の対立が激化、会津の蘆名盛氏は背後を突かれる危険なしと判断して越後への出兵を決めます。時を同じくして松倉城の椎名康胤も挙兵しますが本願寺顕如の意を受けた一向宗徒は呼応せず、逆に椎名氏追い落としを図る神保長職が輝虎に加担したため康胤は動きを封じられ、これを見た輝虎は蘆名勢迎撃のため春日山城を進発します。
栃尾城を目指していた蘆名軍は輝虎の出陣を知ると城を囲まず楢木峠に本陣を構えます。輝虎は五十嵐川を渡って布陣、速戦を望んで挑発しますが蘆名軍は応じず睨み合いとなり、この対陣は長丁場になります。とりあえず輝虎の誘引に成功した信玄は諸城攻略に注力することになるのです。
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