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桶狭間後の今川義元 その40

三河失陥は甲信を奪還した武田の勢いを削ぎ、続出する国衆の離反は止まりませんでした。また諸勢力への調略も上手くは運ばず勝頼は焦ります。北条との同盟はすでに有名無実化しており、今や明らかに反幕府の旗幟を鮮明にしているのは四国の長宗我部のみでした。

九州の激変
このころ九州では情勢が大きく様変わりすることとなります。島津貴久のもと薩摩統一を果たした島津氏は、貴久の子義久とその弟たち(義弘・歳久・家久)が急速に勢力を拡大、日向の伊東義祐は抗しきれず大友宗麟を頼ります。受諾した宗麟は大軍を差し向けますが耳川で大敗してしまい、これによって九州北半をほぼ掌中にしていた大友の勢威は大いに衰えて国衆の離反が続発、これに付け込んだ毛利の九州反攻を招いて二正面作戦を余儀なくされます。

室町幕府の限界
情勢の悪化に窮した宗麟は、将軍足利義輝に毛利軍を退かせるよう依頼します。しかし毛利輝元は和睦を破ったのは大友であるとして応じませんでした。形式上九州の統治は幕府の軍事的出先機関である九州探題として宗麟が担うものですが、それができないとなれば幕府が請け負うべきものです。その成立過程から守護大名との合議制だったと言える室町幕府は自前の兵力を持たず、討伐軍の派遣が必要になった場合、それは即ち守護大名連合軍でした。義輝が直轄軍を大いに整備・増強したとはいえ全国で争乱が絶えない中、九州まで遠征することなど不可能であり、義輝にできることは和睦の呼びかけだけでした。将軍の権威を大幅に回復させたものの実力行使には大きな制約があり、その原因は幕府の体制そのものにあったのです。

武田、上杉に接近
越後に戻った上杉景勝は、謙信時代の度重なる出征による疲弊から立て直すために徳政を実施するなどして新たな領国経営に乗り出すいっぽう自立心の強い国衆の影響力を低下させるため、子飼いの上田衆を取り立てていくようになりますが、これは特に揚北衆の不満と反発を呼びます。また関東復帰を切望する上杉憲政は、かねてから打診されている武田との和睦を成立させて北条討伐に向かうようしきりに働きかけていましたが、武田勝頼の思惑は、それを超えたところにありました。それは甲相越による新たな三国同盟の締結です。成立すれば背後を気にせず幕府と対決することができますし、信濃進出に色気を見せる北条も自重せざるを得ません。甲越の和睦が進展すれば、新たな同盟締結条件を緩めてくる可能性もあるでしょう。そこで勝頼は妹菊姫を景勝の正室にと持ち掛けます。景勝としては勝頼に与して幕府と対決するなど思いもよらないことでしたが勝頼の強さは侮れず、一転して牙をむかないとは限りません。自身の権力基盤を確立するまで戦を避けたい景勝には無視できない提案だったのです。

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戦国時代

Posted by hiro