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桶狭間後の今川義元 その50

天正10年(1582年)に入ると、武田勝頼に引導を渡すべく幕府軍の攻勢が本格化します。駿河を押さえた徳川家康、郡内地方から甲斐を窺う北条に加えて明智光秀が中山道を高遠城に向けて接近、勝頼の命運はまさに風前の灯火でした。

氏直が家康の婿に
将軍足利義輝は武田を駿河から排したことによって勢力圏が接した徳川と北条間の摩擦を懸念し、その関係強化のため同盟を斡旋します。交渉の結果、国境を富士川とする代わりに家康の次女督姫が北条氏直に輿入れすることが決まって家康は駿河から甲斐を窺い、北条は駿河の大軍を郡内に向けることが可能になります。

高遠落城
中山道を進む光秀軍に伊那衆は続々と投降、飯田城・松尾城は難なく光秀の手に落ちます。勝頼から高遠城死守を命じられた仁科盛信は寡兵でしたが、唯一高島城の諏訪頼豊が参陣して意気軒昂でした。盛信は城に籠るだけでは落城は必至と考え積極策を取ります。迫る幕府軍の機先を制して先鋒の木曽義昌・小笠原信嶺勢を破るなど武勇を発揮し幕府軍の漸減を図りますが、兵力差は歴然であり次第に損耗します。勝頼の後詰を期待できないと承知していた盛信の奮戦は鬼神の如くであり、兵の損失を懸念した光秀は再三降伏を促しますが盛信はこれを拒否、やむを得ず光秀は総攻撃に踏み切り盛信は壮絶な討死を遂げます。この後高島城・上原城を落した光秀と新府城を遮るものはなかったのですが、被った損害の大きさゆえ暫時とどまることになります。

武田滅亡
高遠城の失陥と盛信の戦死を受けて、郡内の小山田信茂は遂に北条へ降ります。これに対して勝頼は叔父信廉にこれを抑えさせ、駿河からの侵攻が予想される家康への対処を跡部勝資に委ねると自身は北上します。もはや窮状を打破するには北信の信豊を動かす他になく、仮に信豊が敵対しても自らが姿を現せば配下の国衆たちは合力するだろうと一縷の望みをかけたのです。佐久道を進む勝頼を遮るものはなく、岩尾城に入った勝頼は各国衆に参陣を命じますが、反応が鈍かったため一門衆の下曾根浄喜が守る小諸城へ向かいます。城を前にした勝頼の眼前に現れたのは真田昌幸で、我らが主君は信豊であり城に入ろうとするなら手向かいすると宣言したのです。激怒した勝頼が城攻めにかかろうと逸ったその時、驚くべき知らせが入ります。北条氏照・氏邦らの大軍が碓氷峠を越えたというのです。このままでは背後を断たれると判断した勝頼は撤退せざるを得ませんでした。新府城へ戻る勝頼勢には逐電するものも出始めたところで、さらなる情報が追い打ちをかけます。それは諏訪にいた明智光秀が佐久道を北上しているというものでした。勝頼は光秀を撃破する決意を固めますが脱走する兵が後を絶たず、その軍勢は僅か数百にまで減ってしまいます。もはやこれまでと観念した勝頼は嫡男信勝とともに神光寺で自刃、戦国大名武田氏はここに滅亡するのです。

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戦国時代

Posted by hiro