桶狭間後の今川義元 その20
京に入った武田信玄は、まずは畿内の掌握に全力を挙げて敵対する勢力の懐柔に乗り出します。また朝廷への影響力を増すために、優秀な官僚であり朝廷への工作にも長けた松永久秀を腹心とするべく京に招きます。足利将軍を廃して自らが天下を治めるという彼の野望は手の届くところまでにきたのです。
義輝の反攻策
疾風の如き信玄の電撃作戦に苦杯をなめた将軍足利義輝は、暫時京の奪回を諦めます。歴史を鑑みるに守るに難い京という土地柄取ったり取られたりの繰り返しになり、その度荒廃が進むでしょう。畿内を信玄が確保すればその勢力は巨大なものになりますが、精力的な外交で武田陣営を切り崩すとともに包囲網を形成することで事態の打開を図ります。まず手掛けたのが武田と北条の離間です。義輝は上杉輝虎が北条氏康の甥足利義氏を古河公方として認める代わりに輝虎の関東管領職を北条が認めるという条件での和睦を双方に提示します。関東再進出を諦めていない輝虎にとって、これは名ばかりの管領にとどまり北条の実効支配を認めることになるので難色を示すかもしれませんが、他ならぬ義輝の斡旋ならば否とは言わないでしょう。問題は北条ですが、長年悩まされてきた輝虎の圧力がなくなるのは好都合なはずです。しかし当主氏政は信玄の娘婿でもあります。ここは「御本城様」として依然多大な影響力を持つ氏康を動かそうと考えます。機を見るに敏な氏康ならば義輝の誘いに乗るかもしれません。ところがこのころ氏康の健康状態は芳しくないものになっていたのです。
また義輝は本願寺顕如に対し本格的に幕府側に立って参戦するよう求めます。松平元康も久秀が法華宗の檀越であることから、放置すればいずれ禍をもたらすと説いて決断を促します。信玄と縁戚関係にはあるものの心情的に幕府寄りであり、これまで幕府側への敵対行動を禁じてきた顕如ですが、宗門の長として俗世の権力を争う当事者の一方に全面的に加担することを良しとしませんでした。しかし梯子を外された形で和泉に孤立している小早川隆景への援助は約束するのです。
氏真高野山へ追放
信玄の入京によって畿内の情勢は一変、信玄に鞍替えする国衆が続出しますが小早川隆景は本願寺の協力が得られたことで堺を畿内への橋頭堡として確保することを決めます。彼の父毛利元就は伊予からの讃岐への圧迫を強めており三好に援軍を派遣する余裕はないでしょうし、大阪湾は毛利水軍が握っています。また一乗院門跡覚慶を久秀に奪われた筒井順慶ら興福寺衆徒の久秀に対する反感も強く、これらの条件を鑑みて可能と判断したのです。これに対し信玄は和泉・大和方面への対応を久秀に一任し、政権基盤確立に向けて動きます。義輝には征夷大将軍から退くことを求めますが、義輝がこれを一蹴して対決姿勢をあらわにすると信玄は今川氏真を高野山へと追放します。敵であれ味方であれ、神輿として担ぐには軽すぎる氏真は用済みと判断したわけです。しかし覚慶を手放すことは死活問題になるので、引き続き久秀の監視下に置かれます。
その後信玄が向かったのは近江ではなく伊勢でした。調略によって内部分裂を起こしていた志摩水軍は武田水軍に抵抗できず、伊勢湾を渡った土屋貞綱と伊賀から伊勢に乱入した馬場信春に挟撃された伊勢国司北畠具教は遂に抗戦を諦め屈服、潮岬以東の海は全て武田方のものとなるのです。
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