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桶狭間後の今川義元 その19

2024年3月17日

尾張の領国化を進めた武田信玄は、稲葉山城周辺に点在する支城に対して付城を築き始めます。将軍足利義輝は信玄が腰を据えて攻略に掛かるものと判断、大垣城との連絡を絶たれることを恐れ西側の砦群からはこれを妨害させて小競り合いが続きます。しかし信玄の狙いは幕府軍を稲葉山に拘束することだったのです。

北伊勢の情勢
伊勢国司北畠具教は幕府方ですが、その勢力は北伊勢には及んでおらず北勢四十八家と呼ばれる小規模な国衆が並び立っていました。そのため利害関係が複雑に絡み合っているため共同歩調を取ることは不可能であり、泡沫勢力にすぎないと信玄は考えていました。軍勢を差し向ければ抵抗せず降るであろうと。ただし長島には一向宗徒が半ば独立した勢力圏を形成しており敵に回すと厄介です。彼らさえ刺激しなければ伊賀越えでの上洛は可能と判断したのです。ただ兵站には不安があります。そこで旧今川水軍を土台に整備した水軍をもって伊勢湾を封鎖すれば未だ幕府方の志摩水軍を阻むとともに、海路での補給が容易にできると。海千山千の信玄は、やはり戦略家としては義輝の一枚上を行っていたのです。

毛利軍堺に上陸
三好と対峙していた松平元康は、待ちわびた毛利水軍が大阪湾に現れたことを知ると早速攻勢に掛かります。まずは三好軍を毛利軍と挟撃して駆逐するべく若江城に迫ります。淡路の三好水軍は幕府に反旗を翻した三好義継の決断に反発するものも多く、組織だった抵抗ができませんでした。さしたる妨害がないと判断した小早川隆景は一気に大阪湾に突入、堺に上陸します。義継はまともな交戦すらできず篠原長房が進出している若江城に向けて退くことになります。毛利軍の堺上陸を知って決着をつけるべく動き始めた元康のもとに届いたのは衝撃的な知らせでした。武田軍が伊賀上野に信玄自ら少なくない兵を率いて現れたというのです。京はガラ空きです。元康は坂本城の石川数正に迎撃を命じるとともに、急ぎ京へ取って返すことになります。

瀬田川の戦い
元康の命を受けた数正は急遽軍勢をかき集めて坂本城を進発し元康との合流を図りますが、山岳に慣れた武田軍の進撃は予想以上に早く方針を変更、元康軍の到着まで単独で食い止めようと瀬田川沿いを南進します。これに対して関津峠に本陣を構えた信玄は軍を二手に分け、宇治方面に急行すると見せて数正を誘引、上流を渡らせた馬場信春とでこれを挟撃、数正は奮戦するも持ち堪えられずに山科方面に敗走します。元康は当初伏見で武田軍の動向を見極めるつもりでしたが数正の敗戦を知ると京に直行します。しかし防衛に不向きな京を確保するのは困難であり、また都が戦火に包まれることを良しとせず一時放棄することを決断、宇佐山城に撤退します。こうして信玄は念願の上洛を果たすことになるのです。

義輝近江へ撤退
信玄の動きは義輝を動揺させます。彼は稲葉山城を細川藤孝に託し、馬廻の精鋭を率いて急遽京の防衛に出立しますが、近江に入ると元康がすでに京から撤退したことを知って軍を返し、大垣城の氏家卜全に水の手に不安のある稲葉山城での長期籠城は不利との進言を受けて佐和山城に拠ることを決めます。ここで稲葉山城を囲む諏訪勝頼と京の信玄を睨み、出方を窺うことにしたのです。
いっぽうの勝頼は満を持して攻略に取り掛かり、支城を次々と落とし始めます。裸にされ大垣城との連絡を絶たれると防衛は困難と考えた藤孝は遂に撤退を決断、幕府軍は大垣城で頽勢の挽回を期すことになります。

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戦国時代

Posted by hiro