桶狭間後の今川義元 その52
各地に割拠する大勢力でも近世的領国支配を確立できていたのは北条くらいのもので、依然として国衆連合体の域を出るものではありませんでした。複雑に絡み合う国衆の利害関係を調整するには限界があり、手っ取り早く国を富ませるためには外へ向かうという中世的思考から脱却できておらず、争乱の種は散在していました。ここで武田滅亡時の各地の情勢を見てみましょう。
奥羽
郡単位の国衆が乱立して相争ってきましたが、出羽では最上義光が最上・村山地方を押さえて戦国大名化に向かい、庄内地方に食指を動かそうとしていました。陸奥の伊達輝宗は長年手こずってきた相馬氏をようやく追い詰め、その後の蘆名・佐竹連合との激突は必至でした。
関東
常陸を除く関東を支配下に置き関東管領となった北条氏政は駿東と甲斐郡内地方も確保し、さらに佐久を足場としての信濃進出を目論んでいました。北条と和睦した佐竹義重は、迫る伊達との対決に備える蘆名の求めに応じて同盟強化に余念がなく関東は比較的平穏でした。
甲信
武田信豊は川中島など北信の一部に逼塞させられて佐久・小県は真田昌幸に与えられましたが、昌幸は依然信豊を主君と仰ぐ姿勢を崩していませんでした。また佐久は北条が押さえたままであり、紛争の火種になります。高遠城の明智光秀は深志城の拡充に入っており、これが武田・上杉対策であることは明白でした。甲斐国中地方では徳川家康が武田旧臣の取り立てを精力的に進め、戦力増強に余念がありませんでした。
北陸
上杉景勝は一向一揆の鎮圧と反景勝の国衆への対処に忙殺されて対外的影響力を著しく減じていましたが、反面他国から侵攻される恐れもなく国内問題に傾注できる状況でした。越前・若狭は将軍足利義輝の側近細川藤孝に与えられましたが、武田元明は若狭守護復帰を諦めてはいませんでした。
東海
家康の版図は近江から駿河富士川以西に及んで幕府を支える第一人者の立場を確固たるものにしました。美濃岩村城には光秀の重臣斎藤利三が入りましたが、西濃には稲葉一鉄・氏家直昌が健在で半ば独立状態にありました。
畿内・近畿
義輝は廃止した管領職に代わって相伴衆の格上げを図ります。従来相伴衆たる家格は限定されていましたが、これらの家は没落して力を失っているため意味を持ちません。そこで家格にとらわれず実力者を引き上げ、重要案件を合議させることにしました。顔ぶれは徳川家康・明智光秀・細川藤孝・毛利輝元・上杉景勝でした。しかし彼らが揃って在京するなどほとんどないため、将軍の諮問機関としての役割を求めたのです。
また義輝は、さらなる幕府の権力強化のため畿内を直轄地とすることを決めます。そのため畿内国衆の処遇に頭を悩ますことになります。さらに幕府に協力した大坂本願寺には顕如が健在で依然各地の門徒に大きな影響力を持っており、寺内町を形成して戦国大名に匹敵する武力を備えた宗教勢力を、いかに幕府の封建制に組み込んでいくかも課題でした。
中国
武田の滅亡によって毛利輝元は積極的に天下を狙おうという野心を封印せざるを得なくなりましたが、宇喜多直家は領土拡大の意欲を隠していませんでした。また次期将軍の座を狙う足利義昭は依然として各方面への工作を続けており、これは義輝にとって最大の懸念でした。そこで万一毛利が義昭を擁して立ち上がった場合に備え、播磨に和田惟政を入れます。
四国
武田の同盟者であり四国統一を目前に控えていた長宗我部元親は、幕府の矛先が自らに向かうことを恐れていましたが、義輝は土佐一国の安堵を条件に許す姿勢を見せます。義輝としては土佐以外の各地に畿内の国衆を配置して元親を囲い込むつもりだったのです。しかし元親は次期将軍たる左馬頭である義昭の「四国切り取り次第」という墨付きを盾に抗弁し、戦にはしたくない両者間での交渉が水面下で続くことになります。
九州
耳川での大敗以降、毛利・島津に劣勢を強いられていた大友宗麟ですが、勇将揃いの大友軍は各地で善戦します。また肥前で急速に勢力を拡大した龍造寺隆信が肥後に侵攻したために島津は軍勢を割かねばならず、南からの圧力は減じたものの依然苦しい状況が続いていました。
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