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海道一から天下一へ その13

筑前を一気に制圧するという島津の目論見こそ外れたものの、立花道雪と高橋紹運という柱石を立て続けに失った大友は守勢に立たされるを得ず、局面の打開は困難な状況でした。そこで秋月種実の岩屋城奪取を島津の使嗾によるものとして幕府に訴えます。幕府は島津義久に申し開きを求めますが、一刻も早い九州平定へと舵を切った義久は言を左右にするばかりで埒があかず、遂に幕府は九州への派兵を決定することになります。

守勢の大友
筑前での攻勢が頓挫したのに対し、日向を進発した島津家久は順調に豊後を制圧して鶴賀城に迫ります。守勢に立たされた大友側の戦意は総じて低く、これは幕府が島津討伐軍を起こすとの報がもたらされても変わりませんでした。大友宗麟がキリシタンに改宗して以来、それを快く思わない家臣団との軋轢が増して求心力を大きく損なっていたのです。加えて道雪・紹運の死が重なり、最早大友単独では島津に抗しきれないのは明らかでした。

利光宗魚の奮戦
豊後から筑前への援軍に向かった利光宗魚は、島津義弘撤退の報を受けて帰還を命じられていましたが、居城鶴賀城には戻らず義弘の動きを注視していました。案の定義弘は筑後から豊後に入って岡城を攻撃します。しかし武勇に優れた岡城主志賀親次が勇戦、義弘を手こずらせます。そこへ宗魚率いる援軍が親次を後詰、義弘はまたしても一敗地にまみれます。その後鶴賀城が囲まれたとの知らせを受けると踵を返して救援に向かい、数に勝る島津軍を果敢に急襲して退かせ入城、この後は防戦に徹して幕府軍来援までの貴重な時間稼ぎをすることになるのです。

幕府軍の進発
大友宗麟から窮状を再三訴えられた幕府は遂に九州派兵を決めます。まずは先遣隊として毛利輝元に豊前、長宗我部元親には豊後に上陸して大友に助力するよう命じます。徳川家康は既にこのことあるを見越して自らの出陣を準備していましたが、ここに至っても極力出血少なく事態を収めたいという意向は変わらず、なおも外交交渉での解決を目指していたのです。島津の強兵は侮れませんが、先遣隊の上陸によって矛を収めるならばそれで良しと考えていたのです。また家康は、輝元の叔父である吉川元春・小早川隆景には輝元への同道を許しませんでした。依然として輝元を危険分子と見做していた家康は、さらなる毛利家中の分断を図るべく元春・隆景には自身が率いる本軍への帯同を命じたのです。もし輝元が島津に対して決定的な敗北を喫するようならば、それに乗じて吉川・小早川を独立させて毛利宗家の求心力を大幅に減じようとの目論見でした。しかし四国勢は土佐一国に減封された長宗我部だけではあまりにも兵力不足のため、阿波の十河存保にも軍監を兼ねて出陣するよう命じます。こうして先遣隊はともに1万程度の規模となるのです。

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戦国時代

Posted by hiro