桶狭間後の今川義元 その21
武田信玄が上洛したことで天下の趨勢は反幕府方に大きく傾きましたが、将軍足利義輝は必死に打開策を講じていました。元亀2年(1571年)に入ると、その努力が功を奏して新たな局面を迎えることになります。
北条上杉と和睦
かねてより義輝から上杉輝虎との和睦を打診されてきた北条では氏康の病が重く、氏政の独断でこれににべもない対応でした。信玄の娘婿である氏政にとって輝虎との和睦など論外だったのです。ところが一時的に病状が快方に向かった氏康が、これに異論を唱えます。関東制覇を成就した後に避けられないのは上方との対決です。このまま信玄が中部以西を押さえると、これに単独で対抗するのは難しくなります。ここは同盟を堅持しつつも信玄の天下取りをなるべく遅らせ、来るべき時に備えて領国を富ませることが肝要で義輝の斡旋は渡りに船であり、輝虎にかき回されることがなくなれば里見・佐竹を屈服させるのに造作ないと。また情勢の推移如何では宿敵輝虎と組んで信玄に当たることも視野に入れるべきと説いたのです。もとより重臣たちが氏康に同意しないはずはなく、氏政は輝虎を関東管領と認める代わりに関東に攻め込まないこと、足利義氏(氏康の甥)を古河公方と認めるならば北条は決して越後を侵さないことを条件に和睦を受けると幕府に申し入れるのです。
輝虎はこれに難色を示すものの他ならない義輝の斡旋であり、本条繫長ら揚北衆の反乱にてこずって幕府の窮地を救えずに忸怩たる思いでいたことから最終的には受け入れることになります。これによって輝虎の眼は本格的に西へ向かうのです。
久秀本願寺と衝突
本願寺顕如は信玄の義弟でありながら、これまで旗幟を鮮明にしていませんでした。松永久秀は顕如に対して信玄の天下取りは定まったと説き、摂津で武田方と対峙している小早川隆景討伐に協力するよう求めます。しかし顕如は足利将軍家が健在である以上、彼らの所業に道理なしと判断して応じませんでした。すると久秀は結城忠正に兵2千をつけて派遣します。敵対することの愚を諭すための処置でしたが、この恫喝にも似た軍勢派遣に宗徒側は色めき立ちます。忠正が熱心なキリシタンだったことも禍したのか僅かな齟齬から双方は衝突してしまい、数に勝る本願寺に忠正は抗い得ず京に敗走します。これに怒った久秀は力での制圧を決断、自ら軍を率いて大坂に向かうことになります。
信玄の誤算
信玄は当初義兄弟という縁故から顕如を自陣営に取り込むことは容易と考えていましたが、思惑通りに事は運ばず苛立っていました。各地に蔓延る本願寺の勢力は馬鹿にならず、少なくとも当面は敵対を避けねば今後の政権掌握に支障をきたしますし、美濃・伊勢をほぼ制圧したものの将軍義輝は近江に健在です。そんな中での久秀と本願寺の衝突は信玄にとって寝耳に水であり、すぐさま久秀に兵を引くよう命じるとともに顕如にも和議に応じるよう使者を出します。すでに攻略に向けて陣を張っていた久秀は退くものの守口に留まったままで一触即発の状態が続きます。さらに信玄を驚かせる情報が国許から入ります。北条が上杉と和睦するというのです。事の真偽を確かめるべく信玄は小田原に使者を送り詰問しますが、氏政の回答は交渉しているは事実だが、あくまで相互不可侵条約にすぎず武田との同盟は堅持する。また条件面での折り合いがつかず成立するかどうかは不透明とのことでした。信玄の西上を利用して関東を着々と切り従えてきた氏康ならば、ここを新たな局面と考え思い切った手を打つことはあり得ます。しかし氏康の病は重いとの噂もあり、娘婿でもある氏政ならば容易に御せるでしょう。何より今北条と手切れになることは背後の安全という西上作戦の前提が崩れることになります。ここは北条への不信を押し包んで天下掌握に邁進するのみと決意を新たにするのです。
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