桶狭間後の今川義元 その53
武田征伐によって幕府の威光は回復し、天下は静謐に向かうと思われました。将軍足利義輝の興味は風流の道へと移って和歌・連歌や蹴鞠に時を費やすようになります。ともに興じる公家たちに混じって今川義元・氏真父子の姿もありました。
毛利、大友と和睦
かねてより幕府に助けを求めてきた大友宗麟に応えるため、義輝は改めて和睦を命じます。九州に固執する毛利輝元は難色を示すものの、幕府内で孤立することを恐れて応じることになります。その代償として備州・美作・出雲・伯耆・因幡の守護も兼ねることになり、名実ともに中国地方の覇者となります。また畿内の幕府直轄化に伴い摂津からの撤兵を余儀なくされますが、小早川隆景は堺に木下秀吉を残していました。国衆の発言力が強く外様や新参の出世が難しい毛利家中にありながら、その機知を隆景に見込まれた秀吉は侍大将に抜擢されていました。ここから秀吉は類稀な対人交渉力を発揮して存在感を高めていくことになります。
長宗我部、幕府に屈服
毛利に接近しながら同盟にまで至らなかった長宗我部元親は、これ以上抵抗すると幕府軍の四国上陸は避けられないと判断して土佐一国安堵の条件を受け入れます。この結果阿波には守護三好氏の一門康長が、讃岐に荒木村重、伊予に池田勝正が送り込まれることになります。
佐久の帰属問題
自立した形になった真田昌幸は依然武田信豊を主君と仰ぐ姿勢を崩していませんでしたが、片や信豊は幕府の処置を快く思っておらず揺さぶりをかけます。佐久を与えられながら北条に実効支配されたままという事実を何とかしろと命じたのです。昌幸は北条と交渉しますが返事はにべもないものでした。信豊自身は動く気がないことを悟った昌幸は一色藤長を通して幕府に頼り、義輝は北条氏直の舅に当たる徳川家康に調停を命じます。この問題は北条が佐久道以西から手を退くことで一応の決着を見ますが、結果的に信豊の北信における求心力は低下してしまいます。偉大な父古典厩信繫と比べると、その器量は大きく劣るものでしかないとの見方が広がり、相対的に昌幸の存在感が増すことになります。
争乱への序章
安芸の足利義昭は相変わらず自身の将軍位継承に向けて工作を続けていました。義昭にとってこれはあくまで将来への布石であり簒奪を意図するものではなかったのですが、情勢が落ち着いた結果不遇をかこった勢力にとっては捲土重来の機会を与えるものに映ることを義昭は自覚していなかったのです。吉川元春こそ義昭の存在を危険視していましたが、輝元は将来有用な駒として義昭の策動を知りながら抑えようとしなかったことが、驚天動地の事件を引き起こすことになるのです。
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