タイソン終わりの始まり
1990年2月11日、東京ドームでマイク・タイソンがジェイムス・ダグラスに10RKOで敗れ、統一世界ヘビー級王座から陥落しました。ボクシング史上最大の番狂わせとされるこの結果は世界中を驚かせました。まさかのまさかです。少なくともこの試合でタイソンの敗戦を予想したファンは皆無だったでしょう。それほど彼の強さは際立ったものだったのです。
現在では一般的にタイソンはすでに全盛期を過ぎていたとされます。これには私も同感で、個人的にはマイケル・スピンクスを失神させた試合が絶頂期であり、その後二度とそのパフォーマンスを取り戻すことはなかったと考えています。しかし若くして史上最強と謳われるほど別次元のスピードとパワーを誇ったタイソンの敗戦は、ダグラスを嘗め切り調整不足だったからで依然彼が最強と見る向きがほとんどでした。確かにそれはそうかもしれませんが、そんな状態でリングに上がるのは相手というよりボクシング自体を嘗めた行為であり、その心構えがチャンピオンに相応しいとは思えません。
そこに至る過程でタイソンの行く末を不安視する声はありました。スピンクス戦後に恩師カス・ダマトが禁忌していたプロモーター、ドン・キングと契約してトレーナーのケヴィン・ルーニーを解雇してしまったことが原因です。実際それ以降私生活が乱れて多くのトラブルを引き起こしゴシップが増えていきます。キングは非常に評判が悪く胡散臭い人物ですが、当時ヘビー級トップのほとんどを傘下に置いており、マッチメイクの点では恩恵を被ったボクサーも多いはずです(そのぶん搾取されたでしょうが)キングにとってタイソンは「金の生る木」であり、契約を望むのは当然です。タイソン転落の原因は彼自身にあり、キングはその片棒を担いだに過ぎないでしょう。誘惑や甘い罠に抗し切るだけの自律心が決定的に欠ける未熟な人間だったということです。
スピンクス戦からダグラス戦に至る間の2試合では彼のボクシングは破綻を見せてはおらず、大きなパフォーマンスの低下は感じませんでした。これはダマトとルーニーに徹底的に鍛えられた攻防一体の技術を体が覚えていたということでしょう。しかしダグラス戦では懐に飛び込むスピードはなく、上体の動きも緩慢でジャブを避けることができませんでした。特に復元力を生かしたクイックなウィービングは全く見られず、明らかにそれまでのタイソンとは別人でした。この卓抜したウィービングは、その後も復活することは二度となかったのです。楽器でも練習を一日休むと取り返すのに三日かかるなどといいますが、成長期に鍛錬を積み重ねて体得したものを一度放棄して失うと、再び得るのは至難の業ですからね。
また8R終了間際、ダグラスがダウンした際の「疑惑のロングカウント」についても運命的なものを感じます。レフェリーがミスを認めているため本来ならばダグラスはKOされているところです。無効試合にならなかった経緯はわかりませんが「タイソン無敵神話の崩壊」を象徴している気がします。仮に無効試合とされ再戦していたら、おそらくタイソンが勝ったでしょう。そして史実より5年早くイヴェンダー・ホリフィールドと激突することになったはずですが、これについては別の機会に譲ります。
ダグラスが絶好調に見えたのはタイソンのらしからぬ姿に増幅されたもので、決してそうでもなかったようです。ダグラスは3年前に空位のIBF王座をトニー・タッカーと争って成すすべなく敗れています。ダグラスとタッカーはともに長身とリーチを生かしたボクサーファイターですが、この試合では明らかに全ての面でタッカーが上回っていました。タッカーは次戦でタイソンと対戦して判定負けしましたが、私は全盛期のタイソンを最も苦しめたボクサーだったと考えています。もし東京ドームのリングに上がったのがダグラスではなくタッカーだったら、もっと早く決着していたことでしょう。もっとも相手がタッカーならばタイソンも嘗めてはかからないでしょうが、ベストフォームでリングに上がれたかは疑問ですからね。
それにしても皮肉なものです。ダグラスはタイソンに初黒星をつけたボクサーとして歴史に名を残しましたが、タッカーは王座に返り咲くことはなく忘れ去られた存在です。タイソンとホリフィールドの因縁にしても、神様の気まぐれで紆余曲折を経ました。様々な偶然の重なりが歴史を作ってきたわけですが、やはりタイソンの敗北は歴史的必然として運命づけられていたように思えます。
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