桶狭間後の今川義元 その51
武田勝頼・信勝父子の自刃によって各地の武田軍は霧散霧消し、勝頼の叔父信廉は捕らわれ斬られます。長年悩まされ続けた武田を滅ぼした将軍足利義輝の喜びはひとしおでしたが、最大の懸案を解決したことで義輝の気力はこの後衰えを見せ始め、その興味は風流の道に向かうことになります。
武田征伐の論功行賞
京に凱旋した徳川家康・明智光秀らを歓待した義輝は、その功績に報いるための論功行賞を行います。当初義輝は約束通り甲信を武田信豊に与えるつもりでしたが、側近一色藤長が反対します。信玄の威光が強い甲斐に信豊を残しては後々禍の種になるとし、信豊が勝頼に対して何ら積極的な行動をとらなかったことを口実に約束を反故にするよう主張したのです。また藤長は幕府との折衝に当たった真田昌幸を高く評価し取り立てるよう勧めます。これには義輝も同意して結局佐久・小県を昌幸に与え、信豊をそれ以北に押し込めることにしたのです。さらに駿河は家康に、甲斐は関東管領としての北条に充てます。勝頼の首級を上げた光秀は勲功第一とされ美濃と南信を手にします。しかし室町幕府の守護職は有名無実に等しく、領国を一元支配する効力にはなりえないものでした。
義輝と家康の齟齬
宿敵武田を葬った幕府に表立って敵対する勢力はなくなり、その権威は大いに上がります。弟義昭の存在が不安要素ではあるものの近畿以東を従えた義輝の武力は強大であり、もはや自身が陣頭に立たずとも世は治まると考えていました。しかし後継者問題は決着させねばなりません。そこでかねてからの腹案を実行に移します。家康を今川義元の養子として名跡を継がせたうえで将軍職を譲るというものです。すでに義元の同意を得ているので、ことは滞りなく進むと思いきや家康が難色を示します。自分が器でないこと、義元には氏真という嫡男がいることをあげて首を縦に振らなかったのです。実のところ家康は義輝の考えを甘いと感じていました。確かに義輝の権威は上がったものの、守護大名が力を失った以上その連合体である幕府の体制そのものが時代にそぐわなくなったのは明白であり、戦乱によって収斂されたがために割拠する勢力は大きな動員力を持っています。これらは利害の対立する敵を幕府を利用して屠ってきたとも言え、それは今後も続くでしょう。またキリシタンの増加も懸念されます。彼らに政治的意図はないにせよ、各国の指導者層についてはわかりません。布教と貿易だけでは満足せず侵略戦争に踏み切る可能性は排除できず、強力な兵器を備えた軍隊に対抗するには一枚岩にならねば不可能です。さらにはキリシタンと結託して覇権を握ろうと目論む勢力が現れるかもしれません。これらを防ぐには全国を一元支配する強力な政治体制を確立することが必須で、悠長に構えていては手遅れになると考えていたのです。家康は義輝がかつての気概を失いつつあることを危惧するとともに旧態依然たる幕府を継ぐことはせず、その体制を如何に中央集権的なものに変貌させるか、なおかつ円滑に進めるかの模索を始めるのです。
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