維新二傑
1877年(明治10年)5月26日、明治維新の元勲木戸孝允が京都で病死しました。西郷隆盛・大久保利通と並ぶ維新の三傑の中で、最も若い木戸が二人に先んじて帰らぬ人となったのです。
私は西郷をあまり評価していません。確かに倒幕に関しては果たした役割は大きかったでしょう。しかし武力倒幕は大政奉還と王政復古が成された後のオマケのようなものであり、戊辰戦争という内戦を経ずとも日本は近代化に向かったはずです。また、島津斉彬の影響から開国と富国強兵を必須と考えていたことは想像できますが、それをどのように実行していくかについてのビジョンを持っていなかったように感じます。そのため新政府樹立後は何ら建設的な役割を果たしていません。唯一の功績は、不平士族に担ぎ上げられ彼らとともに滅んで封建制に引導を渡したことでしょう。優れた革命家ではあっても政治家としては凡庸だったということです。
いっぽう木戸と大久保は各々明確な青写真を描いており、その差異から対立することもしばしばでしたが、最終的には立憲政体と議会制民主主義の確立を目指す点で一致しているという点で揺るぎない信頼関係があったと思われます。ただ開明的な木戸が当初から憲法制定と議会開設を唱えていたのに対して大久保は民度が低い段階で導入すれば混迷するだけとし、これらを実現するためには国民の啓蒙が必須であり、まずは天皇親政のもと強力な中央集権体制を確立するのが先決と考えていました。急進的で理想主義の木戸と漸進的で現実主義の大久保とは肝胆相照らす仲ではなく、性格の相違からも微妙なものだったでしょうね。近くにいると煙たいが、いないと心細いというような…
さらに周囲の思惑もあります。新政府が手を付けた改革は行政・立法・司法・身分制度・軍制・経済・思想・文化・教育と、ありとあらゆる分野に及びます。当然指導者間の対立構造は画一的ではなく複雑に絡み合うことになり、西郷に政治的センスがない以上、彼らが自らの政策を実現するには薩長閥の実力者である木戸と大久保の少なくともどちらかを味方につけない限り不可能です。新政府の打ち出した施策が行き当たりばったりで迷走しているかのように見えるのは、案件ごとに敵と味方が入れ替わるような複雑怪奇さがもたらした妥協の産物だからと言えるでしょう。
当初は唯一の総裁局顧問専任として新政府を牽引していた木戸は持病の悪化もあって影響力を漸減させていき、初代内務卿となった大久保の主導権が確立します。しかし皮肉なことに木戸の死後、西郷の敗死と大久保の暗殺によって薩摩閥は勢力を失い、明治維新は木戸の腹心だった伊藤博文によって完成することになります。
それにしても、維新の立役者たる元勲たちのバイタリティーには頭が下がる思いです。彼らの中には暴力の犠牲になったものも多く、まさに命を賭して日本の近代化に向けて邁進したわけですからね。また戊辰戦争や、西南戦争に代表される不平士族の反乱では多くの人命が失われましたが、フランス革命やロシア革命の犠牲者数に比べれば微々たるものです。世界史上でも類を見ないほどの改革を、大した流血を伴わずに20年という短期間で成し遂げたことは世界に誇れる偉業でしょう。
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