桶狭間後の今川義元 その3
今川義元が難なく畿内を制圧できた最大の要因は、言うまでもなく甲相駿三国同盟の存在です。同盟の一翼を担う武田・北条は義元の西上をどのように見ていたのでしょうか。
武田信玄の野望
上杉輝虎(謙信)との激闘を経て北信濃を支配下に置いた信玄は選択を迫られていました。このまま北上して日本海に達するか、それとも踵を返して南進に転じるか。しかし天下人となった義元には勢いがあり、ここで方針転換すると時節が味方するとは思えません。とはいえ輝虎は予想以上に手強く、これを屈服させるのは容易ではないです。信玄には義元の膝下に屈するつもりは毛頭ありません。武田氏は足利一門ではないですが、源義家の弟義光を祖とする甲斐源氏の名門です。かつては源頼朝・義仲と鼎立したほどの勢力を誇りながら、頼朝に疎まれて徐々に削られていったという歴史もあり、今川はおろか足利将軍家さえ追い落とすことに躊躇はありません。ここは内政を充実させて国を富ます傍ら関東で輝虎と対峙する北条を援護して関係を強化、時節到来を待つことにします。
北条氏康の思惑
関東管領上杉憲政を追い落して関東制覇は時間の問題かと思われた北条氏康は、輝虎の介入によって一時は小田原城を包囲されるという苦境に立たされました。この際同盟相手である義元を通じて将軍義輝に働きかけて輝虎に矛を収めるよう命じることを望みました。足利将軍家に対してことのほか忠誠心の強い輝虎が拒否するはずがないからです。ところが義元は積極的に働きかけず放置したのです。これは義元の計算で、もし輝虎が関東を制圧すれば看過できない一大勢力になるものの、氏康と同じ理由で彼が幕府に逆らうことはないと踏んだのです。あわよくば共倒れになってくれれば尚更良いと。氏康は信玄の協力で窮地を脱して徐々に失地を回復してはいましたが、以来義元に対する不信感が増していました。氏康の目標は関東を完全に支配し、ゆくゆくはかつての平将門が目指したような上方から半ば独立した国家の建設ですから、輝虎が関東に傾注できなくするためにも信玄との同盟は不可欠です。この時点で京を巡る情勢は、氏康にとってさほど重要ではないのです。
上杉輝虎のジレンマ
関東管領にはなったものの氏康の底力は侮れず、輝虎が関東各地を転戦して従えても越後に戻っている間に巧みな調略で切り崩されるというイタチごっこになっており、労多く功少ないものでした。信用できるのは常陸の佐竹と安房の里見くらいのもので、向背常ならない関東諸将たちの利害関係は複雑に絡み合っており、力で切り従えるのみの輝虎には戦略眼が欠けていたのです。また信玄との対決では結局のところ北信濃を確保されるというありさまで劣勢です。越中一向一揆の動きも不穏ですから、関東にかかりきりでは春日山城を一気に狙われる心配すらあります。関東管領という立場と義を通すという自らの信条をもとに、援軍要請があれば駆けつけるという八面六臂の働きを続けざるをえない輝虎にとっては深刻なジレンマです。ただ将軍義輝からの信頼が厚いという自負のもと、関東制圧に邁進する限り義輝の助力があるものと期待していました。
義元の背後に控える彼らは、いずれも敵に回すと非常に手強く厄介な相手ですが、同盟が堅持されている武田・北条はもちろん上杉の動向にもさほど懸念がないことで西へ向かうことができました。順調な船出に見えた新政権ですが永禄6年(1563年)になると新たな火種が燻り始めます。それも京からほど近い近江にです。
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