華国鋒の歴史的役割は?
1976年10月7日、華国鋒が中国共産党中央委員会主席に就任して最高指導者となりました。彼は日本ではほとんど忘れされれた存在と言えるでしょう。現在では毛沢東時代の次を担ったのは鄧小平とされることが一般的で、彼が短期間とはいえ最高指導者だった事実に触れるメディアは皆無に等しいですね。
しかし当時を知る私としては、底知れぬ恐ろしさを秘めた辣腕政治家なのではないかと畏敬の念を覚えたものです。何しろ毛存命時に権勢をほしいままにしていた文化大革命の主導者四人組を毛の死後一か月を経ずして電撃的に逮捕、文革を事実上終結させたのですから。外見は温和な人物に見えるものの、内に鋼鉄の意思を秘めた強力な指導者なのではと想像したものです。その彼が僅か二年後に失脚するとは予想できませんでした。やはり一党独裁体制内での権力争いは、自由主義国家に生まれた私たちの想像を遥かに超えた陰惨なものであるということを再認識させられます。
それでも中国では一定の評価を得ているようで、これは文革を終わらせたのみならず彼が金銭的に清廉で、自らへの利益誘導を図ることがなかったということが大きいようです。今でも時折党幹部の不正や汚職が明るみに出ますから、それらを憎む庶民に支持されるのも当然という気はします。
では、なぜ彼があっという間に失脚したのか。それは彼自身毛の側近であり、文革中に引き立てられたという事実に原因があるでしょう。四人組が毛の権威をかさに着て自身の保身を図り、当然の帰結として政敵の抹殺に血眼になったのに対し、清廉な彼は毛路線の支持者でありながら距離を保っていました。鄧は四人組に失脚させられる以前にも苦汁を飲まされては復活を果たした人物で、毛存命時から改革開放路線への転換が必須と考えていたと見るべきです。しかし毛の権威は絶大であり、かつて走資派として攻撃された鄧は自分が前面に立っては文革派が一枚岩となる可能性を危惧したことでしょう。一気に覆すことは難しく対立も先鋭化するはずですから、そこで毛路線の支持者ではあるものの穏健な華を丸め込み、まずは過激派と言える四人組を排除するすることで文革の誤りを認め、世論を誘導して元々毛路線の継承者であったはずの華を路線回帰不可能な立場に追い込む、つまり外堀を埋める形で自らが登場して主導することが円満な権力移譲に繋がると考えたのではないでしょうか。
では、華が鄧に対抗する術はなかったのか? 彼は軍のトップである中央軍事委員会主席でもあります。これは毛が、その権威の浮沈があっても決して手放すことがなかった重要なポストです。軍さえ押さえれば武力に訴えてでも敵対勢力を一網打尽にすることは可能なはずですが、華には軍歴がほぼ無いに等しいことが致命的だったと思われます。長征以来解放戦を指導してきた鄧は十大元帥の生き残りである劉白承・徐向前・聶栄臻・葉剣英と近い関係にあり、また彼らはいずれも文革で攻撃された人物です。中国は広大ですから彼ら人民解放軍の権威とのパイプを持たない華が、全国規模で軍を統率しうる求心力を持つはずはなく、改革開放へと向かう流れに抗する手段は事実上なかったのではないでしょうか。
やはり失脚と復活を繰り返してきた鄧のしたたかな政治力は華を遥かに凌駕するものだったと言うべきです。それでも文革から改革開放という極端な路線変更が比較的スムーズになされた要因に、華の存在があったのは間違いないでしょう。彼が四人組の逮捕を断行しなければ権力闘争は泥沼化して流血の事態を招いていたかもしれず、改革開放は著しく遅れたでしょう。そういった見地から考えると、新たな時代に移行するための潤滑剤となった彼の歴史的役割は、決して小さなものではなかったと考えます。
中国の少数民族政策とポスト文化大革命 ウランフの「復活」と華国鋒の知られざる「功績」 [ 木下 光弘 ]価格:5280円 (2023/10/4 12:13時点) 感想(0件) |
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません