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花倉の乱と寿桂尼

天文5年(1536年)6月10日、今川氏の後継者争いにおいて弟梅岳承芳に敗れた玄広恵探が自害しました。花倉の乱として知られる内乱を制した承芳は、この後今川義元として家督を相続し歴史の表舞台に登場することになります。

このお家騒動の原因は、当主今川氏輝が若くして急死したことにありますが、不思議なことに後継者とされていた弟彦五郎が氏輝と同日に死去しているんですよね。そのため暗殺説もありますが、それを示唆する史料はありません。有力な説として疫病があります。実はこの年、氏輝と彦五郎は揃って小田原を訪問しているのですが、その帰途前年甲斐都留郡で発生した疫病に罹ったのが原因とするものです。なくはないですが、やはり同日というのがひっかかります。どんなに致死性の高い病気でも、人間の耐性には個人差がありますからね。さらに氏輝は病弱だったとされています。これは代々跡取りと目される人物に与えられる彦五郎を、弟が名乗っていることで裏付けられます。普通ならば、この先正室を迎えて嫡男の誕生を待つべきところでしょう。氏輝は幼少期から何かしら重大な健康不安を抱えており、それを危惧されていたと見るべきです。そのいっぽうで氏輝は武勇に優れていたとされているので、生来虚弱だったわけでもなさそうです。ということは、突然発作に見舞われるような病だったのかもしれません。例えば癲癇のような。もちろん想像の域を出ませんが…

彦五郎の人となりについては皆目わからず実在を疑う意見すらあるほどで、それもそのはず史料上の初見が死に際してという有様。ただ氏親の正室寿桂尼の子とされているので、兄氏輝に不測の事態が起きた場合のスペアとされたのでしょう。

その寿桂尼ですが、乱の勃発に際して当初から承芳支持だったとされてきました。承芳も寿桂尼の子とされてきたからです。映像作品でも、そのように描かれるのが常でしたが、近年実は承芳も庶出であり寿桂尼は恵探派だったという説が出されており、乱終息後養子縁組したとするものです。では実母は誰かについては決め手を欠いており推測の域を出ませんが、いずれにせよ恵探を推したとするのは無理がありそうな気がします。乱の趨勢がはっきりしたのは北条氏綱が承芳側に立って派兵したからですが、氏綱の嫡男氏康の正室が寿桂尼の娘であることを考えると不自然で、寿桂尼が恵探側ならば北条はそちらにつくはずです。また恵探の母が遠江を本拠とする福島氏の出であるにせよ、駿府を退去して花倉城に入るのも疑問です。寿桂尼は夫氏親の健康が損なわれてから政務にも関り家中で大きな権力を持っていたのですから、あえて離れるのが得策とは思えません。もちろん兵力の面で大きく劣っていたならば守るに難い駿府を捨てるのも理解できますが、当初両者の勢力は拮抗しており、まさに領国を二分した大乱だったと思われます。北条の参戦で早期に決着がついたものの、今川義元となった承芳は権力基盤の確立に苦慮しており、宿敵武田との同盟に踏み切ったのも不安定な状況下での戦を避けたかったからでしょう。また、これに激怒した北条氏綱の駿河侵攻に成すすべなく河東を奪われたことも、その証左と考えます。

この河東失陥は義元にとって大きな打撃だったはずですが、蜜月のはずだった北条を敵に回す結果となった武田との同盟を義元は何故選んだのか、次回その点を考察してみようと思います。

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戦国時代

Posted by hiro